Kaoru Shigihara
鴫原 薫
Statement / Profile
水なき海の名へ
“日本はもはや大国ではない”
2024年、新聞の見出しに前財務官の発言が載った。他人事のような言い回しに腹は立ったが、今の日本に大国の勢いを感じることはできない。この記事を読んだ際、日本を憂い行動した作家、三島由紀夫の存在を意識せずにはいられなかった。
2025年に生誕百年を迎えた三島由紀夫は昭和を代表する文豪の一人だ。数々の名作を世に送り出して時代の寵児となるが、三十代後半はスランプに陥っていた。この頃から政治活動家としての側面ばかりクローズアップされるが、決して芸術活動を疎かにしていたわけではない。
本作は三島由紀夫の遺作『豊饒の海』四部作をモティーフとしたアダプテーション作品である。『豊饒の海』は夢と転生を描いた長篇で、結末や転生の行方などその解釈に様々な余地が残されている。三島文学に心を奪われ、没入することでこれまで何度も救われてきたが、アダプトを目的とする読解は難航した。キーとなる言葉や場面を集積し、イメージを具現化すべくスケッチを重ねてゆく。矛盾や齟齬を取り除くため、作品に登場する国内外あらゆる実在の地点で取材・撮影を行い、各巻の主人公である四人の転生者が目にした光景や心理描写を多重露光が織り成す光と影で視覚化している。
『豊饒の海』は唯識論や阿頼耶識など法相宗の考え方に、輪廻転生など生まれ変わりの要素を取り入れた作品となっている。一・二巻はロマンティックな転生の物語だが、三巻で綻びが生じ始め、四巻で転生の物語が崩壊する。図らずもリンクする物語の流れと晩年の三島の人生。この二つの世界観を昇華させたかった。
ダブルイメージをもたらす多重露光という手法は、ダブルミーニングを持つタイトルにも関係している。“豊饒の海”と聞くと大海原を連想してしまうが、実際は月の海の名前のひとつで、水などない嘘の海なのだ。二重のイメージとタイトルがクロスする《水なき海の名へ》は原稿用紙三千枚におよぶ三島が残した壮大な遺書に対する私からのアンサーである。
鴫原 薫 Kaoru Shigihara
1997年大阪府生まれ。東京都在住。